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イスラエルとパレスチナの紛争が続く現在,改めて以前渡仏で訪れたパリ・ショア記念館の文章を掲載してみます。歴史は繰り返すと言うけれど、どのような形であれ悲しみの遠くない彼岸に僕たちは立っているのだろう。岸に橋をかけられた時、僕たちは一体どうなるのだろう。


-2022年 冬の記録より。


いつか訪れなくては、と考えていたパリにあるショア記念館へ。


(暗く辛い投稿なので、苦手な方はスルーしてください)


この施設は第二次大戦時にフランスで犠牲になったユダヤ人の記録記念館です。


フランスでの犠牲者は1942年から1944年までに76.000人を超え、その中には11.000人以上の子供たちがいました。


彼らのほとんどはアウシュヴィッツ・ ビルケナウに移送されましたが、ソビボル、カウナス、 レヴァル、その他の絶滅収容所 やナチ強制収容所でも殺害されました。生き延びたのは全体のたったの約4.300人だけです。更に行方不明者は記録さえ残されていません。


記念館の地下には犠牲になった子供たちの写真が壁を埋め尽くしています。


何年に生まれ何歳で移送されたか施設は全て調査し、写真に記載されています。中でも生後5ヶ月で移送された子供の写真を発見した時は涙が流れてしまいました。


当時のフランスは戦況の行方を鑑みてナチの傀儡政権をヴィシーに置く事となり、中央政府を移動し,ユダヤ政策に結果的に加担していました。ドゴールは英国に亡命し奪取する機会を伺う羽目になりました。


今回初めて移送の手が南仏まで及び、システマティックにポーランドまで移送ルートが確立されていた事実を知りました。いつも訪れている場所にもその冷酷な魔のレールが敷かれ及んでいたはずです。


もちろん、地下活動のレジスタンスや潜伏の手助けを命懸けで行った記録も残されています。


フランスにおける当時の状況の一つを学ぶために訪れましたが、やはり今の世界と重ね合わせずにいれないと、心を震わせた訪問でした。

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